3.ボランティアじゃなく、友達になるということ

「どこの作業所ですか?」

そう聞かれたことがある。

一緒にいたのは、いつも通りの友達。

ただ、車椅子に乗っているというだけで、私たちの関係は“支援する側とされる側”に見られてしまう。

悪気がないことはわかっている。

でも、そのたびに少しだけ引っかかる。

——私たちは、ただの友達なんだけどな。

障害のある人とない人が一緒にいると、多くの場合、その関係は「ボランティア」として理解される。

助ける人と、助けられる人。

支える人と、支えられる人。

社会の中では、そのほうがわかりやすいのかもしれない。

でも、その枠に当てはめられた瞬間、見えなくなるものがある。

対等な関係。

お互いに笑い合う時間。

遠慮なく言い合える距離感。

本当はそこにあるはずのものが、「いいことをしている人」と「助けてもらっている人」という構図に置き換えられてしまう。

もちろん、助けが必要な場面はある。

実際に、日常の中で支えがなければ難しいこともたくさんある。

それを否定するつもりはない。

でも、それが関係のすべてではないはずだ。

あるメンバーがこんな話をしていた。

「ここまでは自分で行きたいって思ってたのに、周りが勝手に手伝おうとしてきたのが、ちょっと嫌だった」

危ないから、手伝おう。

大変そうだから、支えよう。

その気持ちは、とても自然で優しいものだと思う。

でも、その優しさが、本人の「やりたい」という気持ちを追い越してしまうこともある。

どこまで手を出すのか。

どこまで見守るのか。

その線引きに、正解はない。

だからこそ難しい。

だからこそ、関係性が問われる。

もしそれが“ボランティア”という関係だけなら、

「してあげる」「してもらう」で終わってしまうかもしれない。

でも、“友達”だったらどうだろう。

相手の気持ちを想像する。

ときにはぶつかる。

遠慮せずに伝える。

「ここは手伝ってほしい」

「ここは自分でやりたい」

そんなやりとりを重ねながら、関係は少しずつ形になっていく。

Flowerが大切にしているのは、まさにその関係だ。

ボランティアではなく、友達として関わること。

それはきれいごとではなく、むしろ難しい。

相手を“弱い存在”として見るのではなく、

一人の人として向き合うこと。

そこには、気を遣うだけでは成り立たない、リアルな距離感が必要になる。

でも、その関係の中でしか見えないものがある。

一緒に笑う時間。

対等に過ごす感覚。

「いて当たり前」と思える存在。

もしかしたら、私たちが目指しているのは、「支え合う社会」ではなく、

「一緒に生きていると感じられる関係」なのかもしれない。

その関係に、特別な名前はいらない。

ただ、友達であればいい。

脳性麻痺ライター・著者 東谷瞳  |障害と生きる日々

障害のある私だからこそ伝えられる…そんな想いを発信するホームページです。

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