中学生エッセイコンテスト’98 障害者の国際社会への参加

 最近、国際化が進んでいるという声をよく耳にする。私がこのことについて考えてみようと思ったのは、私が通っている手話サークルで国際手話を学ぶ時間があるからだった。そこで、私はますます国際化されていく社会の中で生きる障害者について考えてみることにした。

 私が、手話と出会ったのは、二年前のことだ。国際手話を学ぶ時間は、本当に少ししかなく、単語ぐらいだ。しかし、最近、これからの社会の中で、日本手話を覚えるよりも大切なことなのかもしれないと思うようになったのも、国際社会に目を向けると同時に、その中での障害者の自立にも目を向けていただきたいという強い願いがあるからだ。

 私自身、障害者の一人で、肢体障害のために、手足と言語が不自由である。私が最も大変なことの一つは、相手に理解してもらえないということだ。新しいところに通いはじめると、理解してもらえるまでに本当に長い時間がかかる上に、私の歩くまねや話すまね、その他にも、いろいろないじめや差別を経験した。言葉がちゃんと伝えられないために誤解を招き、せっかく築いた友達関係がくずれそうになったこともあった。

 けれども私には、この障害があることによって、他の人には学べないようなことをたくさん学ばせていただいた。そのときは苦しくてたまらなかった差別やいじめも、後になって思うと、自分の成長の糧となっているように感じる。その証拠に、最近私は、部落差別や人種差別にも興味をもつようになった。中でも発展途上国の苦しみは、私の生きてきた道によく似ていて、私の仲間のように思い始めている。それらすべてがこの障害からはじまったことに感謝していると同時に、今私は、障害と共に生きる、大きな夢を描いている。

 たしかに、世界の障害者と一緒に国際社会を築いていくということは、大変なことなのかもしれない。でも、障害者も健常者も同じ人間なのだから、手を結んで国際社会に加わっていきたい。障害者は健常者より劣っている人間でもなければ、価値のない人間でもない。障害者は多くの助けが必要である。それでも二十一世紀を生きていく私達障害者にとって、国際社会に参加することは、社会の一員である証にもなる。差別されることは一番つらいことだ。同じ幸せ、同じ苦しみを感じる人間同士、誰ひとり例外はないはずだ。それは、障害者かどうか、先進国か、発展途上国かは問題ではない。真の国際社会とは、みんなが一つになることを意味しているのだから。

 国際化されていく社会の中で、障害者に目を向け、いろんな知識をもってほしい。そこから、障害者へのボランティアがはじまるのではないだろうか。お互いに理解し、助けることで、二十一世紀に向けての国際社会を築いていけるのだと思う。本当の意味で、私達障害者が国際社会に参加し、全ての人が一つになることを願っている。

脳性麻痺ライター・著者 東谷瞳  |障害と生きる日々

これまでの活動を振り返って、一度まとめてみようと立ち上げたのがこのサイトです。ずいぶん昔の物から最近の想いまでお伝え出来れば幸いです。

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