第21回少年の主張 三重県大会 最優秀賞 「障害者として生きる」

 「東谷さん、本当に入試受かったの?」                               

 私の中学生活はこの言葉から始まりました。くやしかった。             小学生の時からいじめを受けていた私にとって、悪口を言われるのは慣れていましたが、こればかりはくやしかったです。負けず嫌いの私は、

「うん。受かったよ。」

と自信満々の顔で言い返しました。

 どうして私は、差別されるんでしょう。なぜ健常者はちがうところをけなすのでしょう。人間ちがって当たり前なのに。今まで何度もこの言葉を心の中でくり返しました。でもこの学校で生活するようになってから、障害者だと言って差別を受けたのは、この言葉だけでした。この学校の友達はみんな、とても親切でした。信じられないぐらいのやさしさでした。私は、少しずつ障害者という自分が嫌いではなくなっていきました。まだ、大好きだということはできませんが、少なくとも嫌いだとは思わなくなりました。

 しかし、私は、中学校に入って、親切な周りの友達と接する中で、戸惑っている時期がありました。周りの友達の私に対する親切な行動。それを受ける私は、こんなに人の助けを必要としなければならない、周りの人々に迷惑をかけてしまう自分を情けなく思い、そういうことが積み重なり自分を卑下してしまうことが多くなったのです。どうすればよいか分からなくなっていました。その時の自分は、助けてもらうということが、どれだけ苦しく、こわかったことでしょう。でも、周りの友達は、私を喜んで手助けしてくれているということに気づき始めることができた今、自分のそういう思いがだんだんと薄らぎはじめています。また、他の人に迷惑をかけたくないという思いが、私と友達との間に大きな壁を作ってしまい、うまくいかない原因の一つになっていたということにも気づき始めています。

 でも、この頃思うことは、障害者をかわいそうだと思っている人がたくさんいるということです。私はそう思われることが一番つらいです。今、社会では福祉のことについて意識が高まっています。障害者も一昔前より社会に参加することができるようになりました。しかし、一方で、障害者に対する偏見がまだまだ根強く残っています。特に障害者はかわいそうという見方が多くあります。私たち障害者は決してかわいそうな人間ではありません。確かに私は、みんなと同じように行動したり、話したりすることは、不可能です。でも、助けがあったらいろんなことが可能になります。

 私は、この学年になってから久しぶりに親友と呼べるような友達ができました。私がその友達と話す時、こんな会話ができます。                      「私、また転んでしもた」                             「もう全く。ドジ」                                そして二人で笑います。この瞬間、あっ、この友達は本当に理解してくれているんだなと思い、うれしくなります。その友達の中には、私が障害者だからかわいそうという思いは少しもないのです。私は障害を宝に生きていきたいと思っています。この障害によって強くなれたし、また、いろんな考えを持つことができるようになりました。私は将来、社会福祉の仕事をしたいと思っています。障害があることによって周りから与えられたやさしさを、私自身が他の人にも与えられたらと思っています。だから、この宝をけなされることはつらいことです。かわいそうだと思われることはもっとつらいことです。私は、障害を否定されたくありません。なぜなら、私は障害者としてみんなに助けてもらいながら、でも胸をはって生きていきたいからです。

脳性麻痺ライター・著者 東谷瞳  |障害と生きる日々

これまでの活動を振り返って、一度まとめてみようと立ち上げたのがこのサイトです。ずいぶん昔の物から最近の想いまでお伝え出来れば幸いです。

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